子どもの頃は、素直に求めることができました。しかし、求めても与えられない、そんなことが繰り返されていくごとに、失望をしないために、あらかじめあまり期待しない、そんな心の癖が身についてしまった気がします。
今日の福音書の箇所は、とても印象的な言葉ですが、イエスさまが、
気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
と言われて語られたたとえ話です。話は決して難しくはありません。ある町に「神を神とも思わず、人を人とも思わない裁判官」がいたといいます。その町に一人のやもめ、未亡人です、やもめがいて、恐らくは不当な目にあっていたのだと思います。「相手を裁いて、私を守ってほしい。」と願います。しかし、しばらくの間、この裁判官は取り合おうとはしなかったといいます。しかし、恐らくは何度も何度も、このやもめが訪れ、何度も何度も「相手を裁いて、私を守ってほしい。」そう願ったのだと思います。人は一度願うことはたやすくできます。こうだったらいい、ああだったらいい、その程度の願い、その程度の祈りなら、叶えられなくても、しつこく祈り続けることはなかなかできません。しかし、本気で思ったこと、必死で願っていることなら、しつこく求め続けることができます。このやもめの願いは、本気だったのでしょう。しばらく取り合ってもらえなくても、あきらめなかった。すると、この裁判官は、自分は神を神とも思ないし、人を人とも思わないが、しつこくてかなわないから彼女のために裁判をしよう、そう言いだします。
ある牧師が、この箇所の説教で、この裁判官、しつこいから仕方なくやってやろうと言っているが、実は嬉しかったのではないか、それで裁判をすることにしたのではないか、そう語っている牧師がいて、確かにそうかもしれないと思いました。私を守ってほしい、私を守ってほしい、そう頼まれる。自分が助かるためには、あなたの力が必要だ、そう願われることは、悪い気がしないものです。そうであるとすれば、このやもめの求めによって、助けてあげたい、という愛が呼び起こされたのかもしれません。それは読み込みすぎだったとしても、強い願いが、人の心を動かす力があるのは、確かにそうだと思います。強い願いは、何も期待できないところから、新しい可能性を生み出す力があります。しかし、それは決して簡単ではなく、何度も失望を味わったうえで与えられたことです。
何度も失望を味わっているせいで、私たちはこの世界にもはや何も期待していなくなっているかもしれません。未来に何も期待しなくなっているかもしれません。それが大した願いでないのならば、諦めてよいのだと思います。でも、やめてはいけない祈りがあります。あきらめてはならない願いがあります。強い願い、強い祈りは、可能性のないところから、新しい可能性を生み出します。人を人とも思わない裁判官ですら、心は動きます。ましてや神は速やかに裁いてくださるといいます。いや、全然速やかに裁いてくれないなあ、という思いも私にはあります。イエスさまは今日の日課の最後に、
しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろか。」
と語られています。神さまを信じて求め続ける人が、果たして地上にいるだろうか、そう語っています。私たちはどこかで、あきらめながら祈っているのかもしれません。イエスさまはこのたとえ話は、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、語りだした話です。すぐに実現しなくても、やめてはならない祈りがあります。あきらめてはならない願いがあります。気を落とさず、強い思いで、もう一度祈り始めましょう。
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