20251026日 宗教改革主日

                 ルカ福音書18章9~13節 「 不思議な恵み 」 

18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

  今日から、50周年記念期間に入ります。来週からは週替わりで地区内の牧師が説教をし、札幌中央ルーテル教会の50年を祝ってもらおうと思っています。木村先生は、もともと中央教会の会員でしたし、西川先生も白井先生もこの教会で宣教研修をしました。私も、この教会が母教会、ここで洗礼を受けたものです。私にとって選びに選んできた教会ではなく、初めて来た教会でした。21歳の時でした。その当時から知っている兄弟姉妹もたくさんおります。まさか、牧師になるとは思いませんでした。この教会に人生変えられました。
 あの頃はバブルの頃でした。多くの人がバカ騒ぎをしていました。でも、どこかで空しかった。私の神学校時代の卒業論文のテーマは、空しさについてです。かっこつけてニヒリズムという言葉を使いましたが。少し大げさですが、生きているのが苦しかった。私だけではなかったと思います。統一教会とか、オウム真理教とか、幸福の科学とか新新宗教と呼ばれるものが生まれた時代です。多くの人が何かに飢え渇いていた。
 今日は宗教改革主日でもあります。ルターは熱心な修道士であったといいます。断食もし、週に二度徹夜の祈りもしていたといいます。あのまま行けば死んでいたと、語ったこともあります。しかし、平安はなかったといいます。自分ばかりではなく、他の修道士も青白い顔をしていたといいます。ルターは塔の回心を経験して、信仰観が変えられていきます。自分の行いではなく、神の恵みのみが自分を救う、そういう心境に至ったといいます。外から見ると一見充実しているようで、魂には何か満たされない、飢え渇くような思いを持つ事があります。
 今日の福音書の箇所には、二人の人が出てきます。一人はファリサイ派の人です。自分が罪を犯すものではなく、週に二度断食し、十分の一をささげるものであることを、神さまに感謝しています。もう一人は徴税人、天に顔を上げることもできず、「神さま、罪人の私を憐れんでください。」そう言った。祈りというより、呻きに聞こえます。義とされたのは、徴税人の方だと書かれています。私たちはここを読むと、自分はこの二人のうちのどちらなのだろうと考えてしまいます。しかし、実際には、両方なのだと思います。人と比べ、人を見下す。そういう心がないはずはありません。しかし、一方で試練にあい、自分の弱さ小ささを見せられ、祈ることもできず、呻くことしかできないことがあります。イエスさまは、この徴税人のように、呻くものを義とする、聖書にそう書かれています。人と比べ、人を見下すものを義としない、ということはよく分かります。しかし、この呻くものをイエスさまは、なぜ義とするのか、よく分かりません。芸能人でも、政治家でも、スキャンダルが見つかり、絶望的な思いを持っている人がいるでしょう。そういうものを神さまが義とする、それは不思議なことです。その理由を知りたくなります。でも、その理由は探ってはいけない気がします。不思議だと思っていなければいけない気がします。神さまは不思議なことをなさる、でもイエスさま自身がそう語るなら、それを受けとめる。それが信仰なのだと思います。理由を考え、そのその理由に沿って自分も生きようとするなら、そこに人間の行為が生まれ始める。そして、それに気づき、それを実行している自分をほめ、できていない人を見下す、そういう行為が再生産される気がします。
 私たちが試練にあい、自分に絶望し、嘆くときにこそ、神さまはそこに来られ、恵みを与え、救いを与えてくれる。とても不思議なことですが、私たちはそう信じる。最近では、信仰義認とは言わず、恩寵義認と呼ばれたりもします、ルターが再発見した福音です。信仰義認だと、信仰という行為が生まれ、信仰を強く持つ人と持たない人の比較が生まれ、このファリサイ派のようになってしまう。恩寵です。ただただ、神さまの恩寵です。
 私を教会に導いたのは、ドストエフスキーや遠藤周作です。いろいろな小説を読んでいて、物語のパターンがだんだんわかるようになりました。それは決して良いことではなく、つまらないことでした。でも、自分の読みとは違う展開が起こり、しかも、なぜか感動させられてしまう小説のジャンルがありました。キリスト教小説でした。読みが外れるのは、罪人が救われていくからです。赦されて救われていくからです。時には正しい人が、自ら犠牲になる時もある。不思議ですが、感動します。普段はうまく隠していますが、試練にあえば、自分の狡さ、醜さ、罪深さがあらわになる私たちは罪人です。しかし、そのような部分を見て、神さまは義となさる、不思議な方です。自分の罪深さをごまかさず、憐れんでください、そう神に助けを求めましょう。

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