20251116日 聖霊降臨後第23主日

                 ルカ福音書21章5~19節 「 終わりの日の忍耐 」 

21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。 6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」 8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。 9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。 11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。 12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。 13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。 14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。 15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。 16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。 17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。 18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

  澤田春貴神学生が、東京の神学校を離れて(札幌中央教会に)宣教研修に来ていますが、先週、その宣教研修の中間評価会がありまして、私も出席しました。私もちょうど10年前に、札幌中央教会での宣教研修に来ていたことを思い出していました。
 10年前、がむしゃらに学び、与えられた課題に何とか食らいつこうとしていました。こんな自分が牧師になれるのだろうか、といつも不安で、それを振り払いたかったのです。9年半勤めた仕事も辞めてきました。というより、10年も持たなかった、と言っていいかもれません。結婚して間もない妻もいて、牧師になれなかったら、自分の人生どうなるのだろうか。あと1年ちょっとで、牧師になれるのかどうかも、当時の自分には見えていなかったし、まして10年後、こうして北海道で牧師として続けていられる、ということは想像もつきませんでした。
 10年前の自分のことを思い出しながら、自分の中間評価の時も、いろいろなことを指摘されて、辛かったというのだけ覚えています。指摘されたことはほとんど覚えていないんですが…。この10年間で、自分の何かが良くなったとか、変わったとかは、全く思えませんし、ダメなところはよりダメになっている気がします。立派になったところがあるとすればお腹やあごのお肉の厚みだけでしょう。 時の流れは人を変える、と言いますが、時の流れは、人を悪くすることはあっても、良くすることはないんじゃないかなと思っています。良くなっていくとすれば、それは「時間の経過」によるのではなくて、その人がその時間のなかで、どんなことと「出会った」か、そこから人は何を学び、何を考えるのか――そういうことが、人を良いものに変えていくのではないでしょうか。そして、私たちが本当の意味で、善いもの・聖いものへと変えられていくのだとしたら、それは「神」と出会うことなのだと、私たちキリスト者は聖書を通して、教えられているのだと思うのです。
 私たちの人生には、始まりがあり、終わりがあります。すべての物事にも、始まりがあり、終わりがあり、この世・この世界そのものにも、始まりがあり、終わりがある、と聖書は告げています。この世にある教会にも、始まりがあり、終わりがあります。子どもの頃から教会で育ってきました。教会には終わりはないと思っていました。しかし、昨今、多くの「教会の終わり」を目にしてきました。教団の宣教総主事として働かせていただいていますが、「まだ終わってはいないけれど、終わりに瀕している」という状況が、あちらこちらにあります。そういうものを見ると、寂しくなったり、何とかしなきゃと躍起になったり。しかし、聖書の言葉に立ち戻るならば、すべての物事には「終わりがある」。そのことをまず受けとめたいのです。でも、始まりがあり、終わりがあるからこそ、その狭間の時をどう生きるか、そこで何と出会うか、ということに大事な意味があるし、価値がある。そして、物事に終わりがあるのは、そこからまた新しいことが始まっていく、ということでもあると思うのです。
 教会の暦・カレンダーは、来週で一年の区切りを迎えて、終わります。その翌週から、新しい暦が始まっていきます。そのような終わりと始まりの時に、私たちは聖書を通して、この世の終わり、私たち命の終わり、そして新しい世界の始まり、新しい命の始まりについての福音を聞いていきます。
 今日の福音書。エルサレムの立派な神殿に見とれている人々がいました。イエス様の弟子の誰かだったかもしれません。エルサレム神殿は、イスラエルの王国が滅亡した後、バビロニアでも捕虜生活から戻ってきた民たちが、何十年もかけて再建したものでした。さらに、イエス様の時代には、ヘロデ大王がひときわ荘厳な大改修を行ったのでヘロデ神殿とも呼ばれていました。ヘロデ王も自分の権威が永遠になることを願っていたでしょうし、人々もこの神殿を永遠のものと思い、見上げていたでしょう。
 しかし、イエス様は「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われました。実際、誰もが永遠を信じて疑わなかった神殿は、イエス様の言葉から40年後、ユダヤ戦争によって跡形もなく破壊され、残った西側の壁は、現在では「嘆きの壁」と呼ばれています。私たち、人間の手の業や、この世の全てのものには、必ず終わりが来る。だから、自分の力、自分の手の業に頼るのではなく、すべての始まりと終わりであり、遥かに大きな方である、神に依り頼みなさい、ということなのです。神殿の荘厳さに見とれるのではなく、本当に大切なもの――神を見つめ、神を見い出していくこと。聖書はこれを私たちに伝えようとしていると思うのです。
 「髪の毛の一本も決してなくならない」という言葉が意味するところは何でしょうか。髪の毛なんて真っ先に抜け落ちて、毎日何本も排水口に流れていきます。悲しい。イエス様の嘘つき、と思いたくなる。しかし、ここでの「髪の毛」というのは、「目に見えないほど細く、ごく小さなもの」を指している、と言えます。イエス様は目に見えないほど小さな「からし種」を指しながら「信仰」をたとえられましたから、ここでもこれを「信仰」という言葉に置き換えて良いのではないでしょうか。また、「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」ともイエス様は言われています。ここでの「忍耐」という言葉は、私たちがなにか我慢をしたり、努力をしたり、ということよりも、本来の意味は「下に留まる」です。つまり、ただ神様に委ねて、じっと心しずかに留まっていくこと、神様のもとにとどまっていくこと、そういうことこそが「信仰」と呼ばれるものであると思うのです。また、「命をかち取る」と言われている部分の「命」とは、私たち人間の人格や、生命としての本質的な部分を指している言葉です。たとえ髪の毛一本のように見える、私たち人間の本質の部分、神様との繋がり、そのような信仰であっても、「決して失われない、奪われない」とイエス様は言っておられるのです。
 イエス様ご自身は、私たちを守るため、救うために、すべてを失い、すべてを奪われた方です。あの十字架の上で――。イエス様が十字架の上で終えられた命。しかしそこから、永遠の命、勝利の命が始まりました。この主イエスが私たちと繋がってくださっている――愛によって繋がってくださっているからこそ、私たちもまた永遠と勝利の中に生かされていくことを、約束されているのです。
 教会は、この主イエスの命の中に堅く留まって、絶えず、繰り返し、この命の約束を受け取りながら、受けとめながら、歩むものです。暦は移り変わります。月日は過ぎゆきます。5年、10年、50年と、教会の歴史も、私たちの年齢も刻まれていきます。しかしどんな時も、永遠の神のいのちの約束の中にとどまっていく、そのような歩みのなかで、教会も、また私たち一人一人も、神の永遠にふさわしく、聖いものとして変えられていく。その神の恵みと御業を、共に覚えていきましょう。アーメン。
 望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。アーメン。

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