20251123日 永遠の王キリスト

                 ルカ福音書23章33~43節 「 王は十字架の上に 」 

23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

  札幌中央教会のみなさん 宣教50周年、おめでとうございます。この50年、いえ、それ以前より、神さまが中央教会の歩みを祝福し導いてくださったことを、私もみなさんとともに神さまに心から感謝いたします。また、その長き歳月、宣教の働きを重ね、教会を支えてこられたみなさんの熱意と献身に敬意を表します。
  そして、今日は、この私も、札幌中央教会にゆかりのある牧師の一人として、お招きいただき、どうもありがとうございます。私が中央教会と大きな関わりを持たせていただいたのは、今から28年前でしょうか、神学校の宣教研修のおよそ7ヶ月間と、またその後、神学校を卒業着、同じ北海道地区の教会で働く者としておよそ20数年間となります。その間、みなさんにいっぱいお世話になり、親しくしていただいたこと、そしてたくさんの大切なことを教えていただいたことを深く感謝し、またこれからも末永くよろしくお願いいたします。いろいろ中央教会とのかかわりの思い出などをお話ししたいのですが、まずはみなさんと一緒に今日の福音のみことばを聞いてまいりたいと願います。
  今日は教会の暦で、聖霊降臨後最終主日で、「永遠の王キリスト」と呼ばれる日で、教会の暦で一年でいちばん最後の日曜日です。来週から待降節アドベント、教会暦の新しい一年のはじまりとなります。実は、この「永遠の王キリスト」という教会暦の呼称を定める際、なかなか決まらず、当時の式文委員会で何度も議論を重ねました。ドイツでは、この日を「永遠の日曜日」と呼んでいます。この日は、「死者の日曜日」とも呼ばれるのですが、神さまを信じる信仰によって、私たちが世を去る日は、私たちにとってただの死の日ではなく、神さまのご支配の中を生かされる永遠の日であるとの意味を込めて、「死者の日曜日」を「永遠の日曜日」と呼ぶのです。また、この日は伝統的に「王であるキリストの日」とも呼ばれてきました。教会暦の終わり、教会は世の終わりの日について受け止めますが、その終わりの日は、すべてが滅ばされてしまう、そうした恐ろしい日ではなく、御子、私たちの救い主イエス・キリストが、私たちのもとにおいでいなり、救いを完成されて、私たちを治めたもう王となられる日である、これが、「王であるキリストの日」と呼ばれてきた所以です。「永遠の日曜日」、「王であるキリストの日」、両方ともも大事だよねということで、いずれにするか、何度も会合を重ねたけれど決まりませんでした。そうした中で、「いっそのこと両方くっつけてみたら?」となり、「永遠の王キリスト」という名称になったのです。毎年この日を迎えて、これはなかなかよい名称だと思っています。私たちの永遠の命は、永遠の王キリストから与えられる。この世のいかなるものも私たちを支配しているのではなく、ただ永遠の王キリストだけが私たちをその御手のうちに治めてくださっている、そのことを良く表していると思うからです。
  ところで「王」という言葉から、私たちは人々の上に立ち強い力で人々を押さえつけ、自分の言う通りに人を動かそう、自分に逆らう者は許さない、そうした存在を思い浮かべるのではないかと思います。しかし、今日、永遠の王キリストの日に与えられた福音は、キリストが人々をそのように力づくで支配なさる姿ではなく、なんとイエスさまが十字架につけられた姿を伝える箇所でした。私は今日の福音がこの箇所であると初めて知った時、とても大きな驚きを覚えました。しかし、その驚きはやがて深い感動に変わりました。イエスさまが私たちにとっての永遠の王であられる、それは私たちの上に君臨して、偉そうに私たちを力づくに押さえつける、そうした支配をなさるのではなく、そのお方は、なんと十字架の王様なのだということ、つまり、私たちに仕えて、私たちの苦しみをご自身に引き受け、私たちのために神からも人々からも見捨てられて、何もかもご自身の一切を私たちのために惜しみなく差し出してくださるお方、このお方が私たちを治められる永遠の王であられると、今日の福音が私たちに伝えていることに大きな感銘を受けるのです。
  今日の福音で、イエスさまは十字架にかけられる人たちを恨んだり呪ったりはされません。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と神さまに祈られ、イエスさまは彼らの赦しを願われます。また、自分の傍らで十字架につけられている罪を犯した人の「わたしを思い出してください」との願いに応えて、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスさまはその人に救いと新しい命を約束されました。私たちの永遠の王は、そのように、ご自身を傷つけ命を奪おうとする人たちのことまでも赦してくださるお方であり、また、死刑に処せられる、この世的にそんな重い罪を犯した人のことをもご自身の心に受け止められて、その人に救いと命を約束してくださるお方です。人々を救われるために、ご自身のことを救おうとはなさらず、大きな苦しみに耐えながら、じっと十字架の上に留まり続けられたお方なのです。
  私たちも神さまの前に、また人々との間に、大きな罪を犯して、失敗を繰り返してしまいます。またいろんな苦しみに押し潰されそうになって、日々の生活を過ごさねばなりません。時に、そんな私たちがクリスチャンとして生きるなんて、神さまの働きに仕えるなんてふさわしくないとか、もうできない無理だとか、そんな思いになります。けれども、そんな私たちを包み込む御手があります。それは、「父よ彼らをお赦しください」と私たちの赦しのために祈ってくださる御手、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と私たちに救いと命を約束してくださる御手、そして、十字架の上でじっと留まり私たちの苦しみを私たちに代わり引き受けてくださっている御手、その御手をもって、イエスさまが、私たちの人生のはじめから、終わりまで、さらにはそれを超えて永遠に、私たちを治めてくださっている。永遠の王イエス・キリストの愛の御手の中に私たちは生かされているのです。
  札幌中央教会の50周年の歩みは、まさにこの永遠の王キリストの愛の御手に包まれ導かれた歩みでした。そして、中央教会のみなさんも、その永遠の王キリストの御心を自分たちの心として歩もうとされてこられました。私もみなさんのそうした心にたくさん助けられ慰められてまいりました。宣教研修の際にみなさんの希望を一度裏切ってしまったこの私、またその後も沢山の失敗を重ねてきた私は、みなさんの赦しをいただいて、その赦しに包まれて歩むことができています。また、北海道地区の中で、中央教会のみなさんはキリストの愛をみなさんご自身の心とされて、困っている他の教会を躊躇せず助け、自分の身を削ってまで地区の諸教会のために仕えてこられました。このようにイエスさまから愛されていることは、自分もまた他者を愛する人になっていくこと、キリストにあって自立するとは自分が立てていればよいのでなく他者のことも立ちあがらせる歩みをすること、そうした心を、私は中央教会のみなさんから学んできました。そして永遠の王であられる、十字架のキリストの愛の中で、中央教会のみなさんから倣った愛の歩みを、私もこれからも志したいと願います。

改めまして、みなさん50周年おめでとうございます。そしてこれからもよろしくお願いいたします。

主よ、私たちを導いてください。

神さま。札幌中央教会の50年をあなたが導いてくださり感謝します。あなたの祝福の中でこれからも豊かな歩みをされるようにお導きください。私たちも共に歩めることを感謝します。永遠の王、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

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