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2025年11月30日 待降節第1主日 |
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| マタイ福音書24章36~44節 「 十字架に目を向ける信仰 」 | |
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 |
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札幌中央ルーテル教会宣教50周年ということで、10月の終わりから当教会の牧会に関わりのある牧師や信徒説教者によって、交代で御言葉の取り次ぎがなされて来ました。今日は、その特別礼拝の最後の説教ということです。特別礼拝の最後の締めくくりの主日を任せられ、この教会の初代牧師であった私としては、感慨深い思いを感じながら御言葉の取り次ぎの準備をいたしました。中央ルーテル教会以前の古い教会員の方々にとっては50周年ということについては思い出深いものが沢山あるかと思います。
中央教会になってからの方々もおられますので、現教会の始まり前の教会について少し述べさせていただきたいと思います。札幌中央ルーテル教会は1975年4月1日から市内にある3つの教会が合同し、1つの教会として歩み始めました。それ以前は、現在、みよしの餃子の店舗になっている(南18条西10丁目)場所で、1950年(昭和25年)にルロイ・ハス宣教師によって、市内10番目の幼稚園の活動が教会よりも先に始まり、翌年の51年に札幌エマヌエル・ルーテル教会との活動がルロイ・ハス宣教師によって始まりました。また、その年に、現在の札幌ルーテル幼稚園(南9条西21丁目)の場所で札幌めぐみ教会と市内11番目の札幌めぐみ幼稚園としての活動がルロイ・ハス宣教師によって始められ、エルフッド・フロム宣教師引き継がれて展開されました。そして、その翌年の1952年にこの場所、厳密には大通りに面した教会としてのユースセンター教会がリチャード・ヒンツ宣教師によって始められたのです。 戦後の何もない時代に始まった宣教師達の篤い思いの宣教は、多くの人たちの心を捉えたくさんの人々が教会を訪れ、洗礼を受け、3つの教会は活発に活動していました。宣教が始まって20年位経った頃から、宣教師たちに育てられた邦人牧師や信徒たちは自分たちの手によって歩む教会活動を考え始めました。ところが、日本の国の経済復興がどんどん進むと共に、教会に集まって来る人たちは少なくなり、それだけでなく洗礼を受けた教会員の方々も教会から遠ざかっていくというような時代がやってまいり、教会員の数は減っていきました。そのような中で、自分たちの手で宣教を考えようとした人たちは、どのように牧師の生活を支え新しい教会活動の展開をしていくか、数年かけて話合いが行われました。その結果が、3つの教会が合同し一つの教会として歩み出すということでした。 合同して出発する直前の1975年(昭和50年)3月16日の三教会合同の総会で、教会名を日本ルーテル教団札幌中央教会(俗称:札幌中央ルーテル教会)という名前として歩み出すことになったのです。その最初の牧師に、神学校卒業したての私が選ばれました。私が赴任した4月27日の時には、すでに教会は、3つが一つとなって歩み始めていましたが、幼稚園は、エマヌエル幼稚園とめぐみ幼稚園がそれぞれの場所で活動を続けていました。その後、国の法改正により、幼稚園は1979年に宗教法人格幼稚園から学校法人格幼稚園に移管し、そして、その2つの幼稚園は1980年4月に合同し、札幌ルーテル幼稚園として歩み始めて現在にいたっているのです。これが、現在の札幌中央ルーテル教会と札幌ルーテル幼稚園以前の始まりです。 この50年を振り返ってみますと、キャンプや、ソフトボール、ヨナ物語の演劇を行う等々、たくさんの楽しい思い出があります。もちろん楽しい事だけでなく困難と思われる辛いことも何度もありました。建築をするにあたってのお金の工面に走り回ったことなど、走馬灯のように思い出がよみがえってきます。いろいろなことがありましたが、箴言の言葉で「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(16:9)とあるように、この50年の歩みは全て神さまの導きによるものと思い、今、再び感謝の思いが募ってきます。 私たちキリスト者としての信仰は、“私あっての神さま”という考え方から、“神さまあっての私”という考え方に変えられて自分の人生を歩む道です。多くの宗教や、日本の八百万の神さまの信仰は、私あっての神さまです。私のために良いようにしてくれるようにと願う神さまであって、祈願して思うようにならなければ、他の神々に移って願って行くというような関わりです。もしくは、ある宗教のように、祈りが足りない、もっと祈りを込めて献金しなさい、そうすれば神さまが願いを叶えてくださるという関わり方です。私たちが聖書を通して知らされる神さまは、繰り返しますが、神さまあっての私たちです。勿論、今、私という存在はここにあります。そ私が有る限り、私が神さまに願っていくこともとても大切なことですが、私が中心ではないのです。全ての人々を大切にされる神さまが中心なのです。 その神さまは愛である神さまであって、私たちそれぞれに命を与え、私たちそれぞれに生きる意味を与えてくださっていると御言葉は語りかけています。たとえ、今、困難な状況におかれていているように見えても、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント第1の手紙10:13)と、イエス・キリストによって新しい生き方に導かれたパウロという伝道師が語るように、どんな時にも神さまが共にいて私たちの人生を導いています。と言うのです。たとえ、私たちが、今、死ぬよう困難な道におかれているように見えても、そこには、愛である神さまの導きがあり、それぞれの苦難の中にも意味が与えられているというのです。 それは、どこで分かるのかと言うと、ヨハネの記者が「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ福音書5:39)と語るように、人の罪の赦しを与える十字架にかけられて無くなり復活されたイエスさまと向き合う時に分かると御言葉は語るのです。 そのイエスさまが、今日の日課の前の部分である24章の始めで、「輝かしい荘厳な神殿であっても崩れ落ちる終わりの日が来る」と弟子たちに語られたのです。弟子たちは驚き、慌てもしたでしょうか。「その日がいつ来るのと」と尋ねます。その答えが、今日の日課の言葉です。イエスさまは、終わりの日は必ず来る、けれど、その日がいつ来るのかは、誰も分からない、とおっしゃいます。その日とは、聖書の直接的な意味から言えば、イエスさまが再び来られる終わりの時ということです。それをもう少し私たちの身近に感じられる言葉に置き換えて聴いて行くと、必ず終わりの日が来る。その終わりの日は、自分の死かもしれない。しかし、それはいつ来るか分からないと聴き取ることもできるでしょう。 人は、自分の命は、自分の寿命でいつか終わるとは思っています。けれど、その寿命はいつなのか、誰も分からないのです。そしてその時が来た時にはと、イエスさまは「ノアの箱船」(創世記6章~9章)の例を出されて、舟に入って救われたノアの家族と、舟に入ることをしないで滅びることが起こるといわれるのです。つまり、人の命は死んだらそれまでと思っている人もおられるかもしれませんが、そうではなく生命を与えてくださった神さまによって評価される時があると言われているのです。そして、それは、2人同じように生活をしていても、1人は連れて行かれ、もう一人は残される、という言葉が続きます。少し難しく聞こえる言葉ですが、その意味は、2人の男の人や、2人の女の人が見かけは同じような仕事をしていても、神さまはそのしていた目に見えることで受けとめられるのではなく、行っていた時のその心の向きが問われているというのです。具体的な例で言いますと、毎週、教会に来ているという形だけでなく、その心がどのような思いで来ているかが問われているというのです。教会に来るという例で話をしましたが、そういうことだけではありません。私たちが生活をしている歩みの中で、私たちはどのような心で自分の人生の歩みをしているのか、その心が問われていると言うのです。 このような言葉を聞いていると「あなたは滅びるかもしれないぞ」と脅かされているように聞こえて来なくもないのですが、この言葉は脅迫しようとしている言葉ではありません。今、自分の心が自分中心の思いになっているとしたら、今から変わろう。今までの歩みから今、変わろう。そう呼びかけている言葉です。イエスさまは、神さまに生命を与えられた私たちの生命が、喜びを持って生き生きと生きるように導こうと語りかけているのです。今日の御言葉は、自分自身の歩みを振り返りながら、今、そうでなければ、今からそのような歩みに導かれようと語りかけられているのです。 イエスさまはいつ終わりの日が来ようとも、今という時を大切に歩むように「目覚めていないさい」と、言われます。「目覚めていなさい」というのはもちろん眠らないようにということではありません。また、いつも緊張しながら生きるようにということでもありません。目覚めているというのは、神様の愛に照らされながら、または神様の愛に導かれながら、そうなっていなかったとすれば、今からその愛に導かれて、自ら生き生きと自分らしく生き得られるようにという呼びかけをなさっているのです。生き生きと、今のこの歩みを喜べる、それが目覚めているということです。 私たしたちは、知らず知らずのうちに自分が満足することに流され、自分中心に物事を考え、相手あっての自分という捉え方ができなくなってしまいがちです。そんな私たちに、神さまは、貴方は、貴方が満足するために生命を与えられたのでなく、真の愛に導かれて、共に生きる喜びが、今感じられるように、目覚めようと、語りかけられておられるのです。 今日からイエスさまの降誕を迎えるアドベントに入ります。イエスさまがいつ来られても喜びを持って迎えられるように過ごしていきたいと思います。 |