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2025年12月7日 待降節第2主日 |
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| マタイ福音書3章1~12節 「 愛の器 」 | |
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 |
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待降節では、必ず洗礼者ヨハネの箇所が読まれます。イエスさまに先立って現れ、その道を整える人だからです。ヨハネはどのように道を整えたのか。それはヨルダン川でその川の水を使って、悔い改めの洗礼を授けることでした。 この洗礼者ヨハネのもとには多くの人が集まりました。エルサレムとユダヤ全土から、ヨルダン川沿いの地方一帯から、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、洗礼を受けたといいます。当時、信仰の指導者であった、ファリサイ派やサドカイ派の人まで、ヨハネのもとに来たといいます。なぜ、ヨハネのもとに、これだけの人がひきつけられてきたのか、言葉の説明だけでは、読み取れないことがあります。ヨハネだけではありませんが、直に会って、その人を感じなければ、感じられないことがあります。言葉の説明以上に、直に経験してみて、初めて感じられることがあります。しかしわずかでも言葉で説明するならば、恐らくは、ヨハネの言葉とその姿はとても迫力があり、神さまの存在をより強く感じさせたのだと思います。 ヨハネの言葉は、厳しい言葉です。「悔い改めよ、天国は近づいた」と語られています。「天国が近づいた」というと、ただの良い知らせだけにも聞こえます。しかし、天国、神の国というのは、神の支配しておられる場所、という意味です。ですからもうすぐ、神さまに直に会う時が迫っている、ということでもあります。神さまに面と向かう時が来る、その日は近い、と語られています。ヨハネはこうも語ります。 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。
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