20251214日 待降節第3主日

                 マタイ福音書11章2~11節 「 愛の器 」 

11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。6 わたしにつまずかない人は幸いである。」7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
  10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

   信徒説教者を希望し、学び始めて一年が経ちました。私が説教者を希望したのは、私なりに牧師不足で大変だ、何かできることはないか、そうだ、教会学校で子ども達に話すのも好きだし、自分なりに教会に貢献できそうだ!と考えたからです。講座の中では、知識的は話だけではなく、イエス様の働きや、救い、恵み、導き・・・等、信仰的な話も含め、多くのことを学びました。  前回、9月の説教の後、道内の牧師先生方と、澤田神学生と説教を振り返る機会を頂きました。その振り返りでは、本当にたくさんの意見、アドバイスをもらいました。そして二回目の今日、前回のアドバイスや自分自身の日々の御言葉との向き合いを通し、私なりにこういうことが本日の御言葉なのだ、と思い、説教をつくりました。
  しかし、原稿を確認してもらう中で、前回も今回も的外れな受け取りをしています。そして、自分が思っていたより全然書けない。書き終え、確認してもらいますが、御言葉から離れた視点での語りが多い、大事なメッセージが聞けない・・・など、様々なアドバイス、ご指摘をもらいます。あぁ、もう無理だ、こんなはずではない、もう辞めたい!説教実践に入ってから、こう思うことばかりです。皆さんに届けたい、私自身も救いに与りたい・・・、その思いを込めて書けば書くほど、どんどん神様の御言葉から離れた歩み方をしている自分に向き合わされます。
  さて、今日の箇所で登場する洗礼者ヨハネは、とても優れた人でありました。イエス様が救い主であると、人々にお知らせするという大切な働きをしました。先週の御言葉の箇所でも、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」と言った人です。そのようにイエス様を理解していたはずのヨハネから出た、一言。

「来るべき方は、あなたでしょうか。」

という言葉。イエス様が救い主であり、理解しているはずのヨハネからこの言葉が出たのです。獄中のヨハネ、ヘロデの不正な結婚、離婚を批判し、投獄され、死刑に処される身、いつ処刑されるかわからない、そのような不安があったことは想像できます。また、ヨハネは神様の前に何が正しいことであるのかを求めていました。だからこそ、ヘロデの行いも、神様の律法では許されないことだと批判し、ヨハネは、自分中心に生きていく生き方から、神様のほうを向いて生きていくよう、悔い改めを求めました。そんな自分が捕まり、処刑される。ヨハネは、「なぜ捕まる?私は正しいことをしただけだ、救い主がいらっしゃる道を整えている私が・・・。それにイエス様がその働きをした自分を助けにも来てくれない、どうして・・・」と、思ったと思います。
  聖書はイエス様の言動を通して、私達自身の考えること、よかれと思って行っている歩み、そのものを問題視され、『私』という自己の問題を指摘し、新しい生き方へと共に歩むように導いています。
  その点、ヨハネは人々に悔い改めもうという、その強い思いで、ヘロデだけではなく、様々な人と関わっていたのではないかと思うのです。それ故に、ヨハネは新しい神様の導きをなさるイエス様の歩みが理解できなかったのだと思います。
  6節でイエス様は、「私につまずかない人は幸いである。」と言います。まるで、ヨハネの歩みを知るかのように、語られるイエス様の言葉。イエス様が救い主であると知っていても、ヨハネはつまずきます。「救い主なら、この私を救ってほしい」「私は神様の前において、正しい働きをしたのだから」と、洗礼者ヨハネが思っていても不思議ではないように思います。

「来るべき方は、あなたでしょうか。」

こう言ってしまうのは、ヨハネだけなのでしょうか。私も、このように言ってしまうし、「正しく働いている、過ごしている」と驕ってしまいます。福音を何度も聴き、洗礼を受けた身ですが、つまずきます。本当の救いがわかっていない、知ったかぶりをしている、いや、そんなことはない・・・そのような気持ちも湧きおこってきます。言い訳がましく、自己肯定するようにイエス様を利用している。そもそも、こんな自分が、教会のために何か働きができるとか、語りたい!という時点で、奢っているのではないかと思う。いや、そう感じている時点で、私の受け止めは「~してあげたい」と上から目線になっている。あるいは、自己中心的な立ち方なのだと思います。そして罪を犯していると気付いているようで、見て見ぬふりをしている自分がいる。また、普段何気ない関わり、言動、行動の中によかれと思っていること、発していることで人を傷つけることもあるのではないか・・・と人に教えられ、心底、自分が嫌になる。教えられても、感じても、その受け止めが私にはない、また、正面から受け止められていない自分がいるのです。
  待降節第1主日でも御言葉を聴きましたように、私が中心ではない、神様が中心であるという言葉。その神様が語って下さることを聴き、従っていくことが大切です。イエス様は徹底的に、人に仕えていく歩みをされた方です。そのイエス様に従って、イエス様のような視点で立てているかと考え、向き合う中で、どう頑張っても立てない自分を認め、イエス様を見上げ、立てるように、従えるように導かれる言葉の受け止めをしていくのです。その受け止めをしていく中で、みじめで、ダサい、意地汚い、自己中心的な自分に向き合わされていく・・・。自分に様々な問題があることに気付き、それまでの自分が変えられていく、新しい生き方へと向いていけるのかと思いながらも、導いていくのだと思います。
  11節でイエス様は群衆に向け、「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」と語ります。しかし、その直後「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」と続けます。つまり、ヨハネはこの世の歩みの中では、預言者以上の者であったけれど、神様が導いて下さっている世界の最も小さい者よりも劣ると言うのです。この『最も小さい者』が誰であるのか。
  『最も小さな者』、それは、イエス様の前で罪を認めた問題ある人と、私は教えられます。人物で想像しますと、徴税人ザアカイが浮かんできます。彼はイエス様と出会い、自分の罪を認め、改心し、生き方を変えられていった人です。イエス様は、このザアカイのような者が、ヨハネより偉大だと語っていると思います。
 私達はどちらなのでしょうか。少なくとも私は、ザアカイよりも偉大ではない。むしろ、その罪あった、イエスに癒されたザアカイにですら、意地汚い奴だ、あんな奴と自分は違うと、区別した立ち方をしてしまう。どこまでもイエス様の導きに従っていない、『最も小さな者』では、決してありません。一方で、洗礼者ヨハネのように偉大な者ですらもない、ただ、ヨハネのように正しさを主張し、そのことによって人を裁き、奢り高ぶる自分の罪にとらわれ続け、そのことを認めよう、受け入れようと思っても、結局、自分が思い描く救い、恵みにすがろうとします。そして都合良く、「来るべき方は、あなたでしょうか。」と思い、口にしてしまう。そんな人間なのです。
  それを自分事として受け止め、今日の聖書の言葉であるイエス様の言葉を聴いていく時、なぜ、こんな私をイエス様は見つけよう、助けようとし、用いろうとして下さるのか。こんなに酷い、愚かな小さい者でも神様の大きな恵みに、救いへと導こうとして下さるのか。イエス様は、今を生きる私達に、あり得ないほどの愛を注がれ、悔い改めるよう、神様を信じ、従うように導かれるのかと思います。自分にこんな力がある、人より優れている、だから救われるというわけではない。この世の価値観で救いの基準は決まりません。
  現代社会は、相変わらず競争社会です。どうしたら、たくさん稼げるのか、人よりも偉くなれるのか、そのような流れにあって、意識的にあるいは、自分でも気づかされない、みじめで愚かな自分が、人を裁いたり、黙殺したり、蹴落としたり、傷つけてしまい、それでも尚、自分が正しいと立ってしまえる。そのような世の中かもしれません。それでも、どうしようもない自分でも必要として下さり、迷い出、離れていく歩みになろうとしても、繋がれ、支えようとして下さる。それが本当の救いに与るということだと思います。
 救い主の誕生を喜び、その福音が今、私に伝えられているのだ、ということに委ね、信じていけるよう、クリスマスまでの一時を、大切に過ごしていきましょう。

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