20251228日 降誕節第1主日

                 マタイ福音書2章13~23節 「 不思議な道 」 

2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。

  18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、

慰めてもらおうともしない、

子供たちがもういないから。」

  19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

   聖書には繰り返し出てくる話があります。一つは水をくぐる話です。ノアの洪水、葦の海が割れ道ができ、ヨナは海に落とされ、洗礼者ヨハネが現れ洗礼を授ける。水をくぐって生き延びる話が繰り返し出てきます。
 今日の話は、ヘロデ王によって、ベツレヘムの2歳以下の男の子が殺される、という話です。この時イエスさまは、エジプトに逃げて、命が守られます。この話は、モーセの出生の話を思い出させます。エジプトの王がエジプトに住む奴隷のユダヤ人があまりに増えるので、生まれた男の子を殺すように命じます。モーセはかごに入れられ、川に流されて生き延びます。そして、エジプトから約束の地へ戻ってきた人でもあります。
 18節に出てくるラケルとは、ユダヤ民族の族長と呼ばれるアブラハム、イサク、ヤコブのヤコブの妻です。ヤコブには二人の妻がいました。レアとラケルという姉妹です。ヤコブには12人の子どもがいます。12部族起点になった兄弟です。12人のうちラケルの実の子は、一番末のヨセフとベニヤミン、二人だけです。ようやく授かった子です。しかし、最初の子ヨセフは兄の嫉妬をかい、穴に落とされたことがきっかけで、エジプトに売られ奴隷になります。しかし、兄たちは父ヤコブと母ラケルに対して、ヨセフは動物に襲われて死んだ、そう報告します。ラケルは慰めてもらおうともしなかった。もう子どもがいないのだから、そう書かれています。ただ、この引用は、創世記からの引用ではなく、エレミヤ書からの引用です。バビロン捕囚、約束の地を再び引き離され、バビロンに連れて行かれるユダヤ人の母たちの心を歌った詩の引用です。子を失うが、再び戻ってくる話、他国に連れていかれるが、再び戻ってくる話が、聖書には繰り返し出てきます。
 ヘロデが本当にベツレヘムの2歳以下の男の子を殺したのか。聖書以外に記録は残っていません。しかし、多くの学者は、十分にあり得るといいます。ヘロデ王は猜疑心が強く、何人もの人を殺しているからです。妻も、兄弟も、叔父も、側近も、自分の息子すらも何人も殺しています。疑心暗鬼になり、次々と処刑するからこそ、さらも嫌われ、周りの人もヘロデに対し猜疑心を向けます。それで、ヘロデも何度か殺されそうになっています。だからこそ、さらに猜疑心が強められる。疑いが、本当の裏切りを生み出しているようです。
 ヘロデはひどい人だと思います。できれば、自分とは全然違う人間だと思いたい。でも、本当にそうでしょうか。幼児殺害のきっかけは、博士たちに約束を破られたことです。ヘロデは言うでしょう。私が悪いのはない、占星術の学者たちが悪いのだと。私達にも身に覚えがあります。ひどいことをしても、あの人がきっかけなのだと。実は、私たちとヘロデの違いは罪の大きさではなく、権威の大きさだけなのかもしれません。私たちは大きな権威を持っていないので、大したことはできない。ただ大きな権威は無くても、人との間には上下関係がすぐに生まれます。先輩、後輩、上司部下、先生と教え子、親子や兄弟、夫婦や、恋人、友人同士の中でも、小さな上下関係が生まれることがあります。そして、自分が少しでも優位な時、常時そうではなかったとしても、ふとした時に強い態度が出ることがあります。そして、それは相手のせいで、自分は悪くないと思っている。小さなヘロデになる時があります。仮に私たちが、誰にも文句を言われない、大きな権威を持ったら、最初のうちは謙虚にしていても、だんだん傲慢になる気がします。人間すべてに当てはまる傾向です。私たちは、罪に捕らわれている罪人であり、罪の奴隷です。自らの力では、解放されることのないものです。まずは、自分の弱さ、罪深さを自覚することです。
 聖書は、アダムとエバ、カインとアベルに始まる、人間の弱さ、罪深さの全集のようなものです。しかし、同時に、その捕らわれから、奴隷状態から、神さまによって助け出される話です。しかし、一度解放されても、また捕らわれてしまう話でもあります。残念ながら私たちは、罪を全て未然に防ぐことはできません。ただ、罪に気付いて悔い改めることならできます。私たちの最大の正しさは、悔い改めです。しかし、その悔い改めも、自分の力だけでは、なかなかできないものです。悪くないと言いたい、人のせいにしたいのが私たちの罪深さでもあるからです。畏れを与え、同時に赦しと変わらぬ愛を与えてくれる方のもとで、人はようやく罪を認め、悔い改めていくことができます。
 エジプトで奴隷であった時、バビロンで捕囚された時、神さまは道なきところに道を作り、不思議な道を開いてくださいました。罪の奴隷であり、罪に捕らわれている私たちのために、神さまは不思議な道を与えてくれています。真理であり、命であり、道であると自らを語る方です。虜を放つ方です。殺されても尚、愛を持って人の前に再び現れる方です。弟子たちに裏切られても、弟子の前に復活し、罪の赦しを語る方です。人が猜疑心を鎮め、信頼、信仰に生きるようになるためなら、自分の命を差し出す方です。この方に、頼りましょう。この道を放さないようにしましょう。変わらぬ赦しと、変わらぬ愛のもとに居続けましょう。この方の愛のもとで、日々、悔い改めていきましょう。

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