202625日 顕現後第3主日

                 マタイ福音書4章12~23節 「 光のある方へ 」 長内大智

12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20 二人はすぐに網を捨てて従った。21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

   前回、説教をさせて頂いてから、1カ月がたちました。前回の礼拝時は、洗礼者ヨハネがヘロデに囚われ、一向に、この状況から助け出して下さらないイエス様に、ヨハネが「来るべき方はあなたでしょうか。」と問いかけ、やりとりが記されていく、マタイによる福音書11章3節の箇所で、御言葉を取り次がせて頂きました。

本日の御言葉は、洗礼者ヨハネが捕らえられ、救いも、恵みも何もかも見いだせないという暗闇の世界に、光を与えて下さる者として、イエス様が「悔い改め」の宣教を始められたということが中心です。一見すると、ガリラヤ湖の4人の漁師の話に目がいきますが、それよりも以前の箇所。すなわち、当時のガリラヤ領主であるヘロデの権力で、洗礼者ヨハネが捕らえられ、神様から離れた歩みになっている暗闇の世界に、預言を成就する者としてイエス様が来られ、その暗闇の世界に、悔い改めるように述べながら、天の国が始められたというところから聴き取ることが大切です。

私は、様々な人達との関わりから起こる、自分の気持ちの思い上がり、時には人を裁くこと、黙殺することもあったと思います。日々、様々な多くの人達との関わりがある度に、私は自分自身の暗闇である罪の問題を実感します。そういう自分自身の暗闇・罪にばかり目が向き、今日の御言葉を読み考えていると、イエス様が導いて下さる神様の支配がある「天の国」に、目が向いていないと、気付かされます。私は以前、洗礼者ヨハネや、イエス様が「悔い改めよ、天の国は近づいた」と述べた、「悔い改め」の意味を、心を入れ替えると受けとめていました。それ故に、自分の言動の中に、さまざまな問題がある罪を自覚し、それを何とかしようと、自己の罪有る問題の方に心は囚われていました。しかし、「悔い改め」の真意は、罪・暗闇に目が向いてしまう歩みから、神様の方、すなわち、光に心を向けるという、言葉であることに気付かされました。 

本日、18節以降に登場します、ペトロをはじめとしたガリラヤの4人の漁師達は、イエス様の「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」声かけに導かれて、心をイエス様の方に向ける悔い改めの歩みを選びました。

聖書には、4人が「すぐに」イエス様に従ってついていったことが記されています。ただ、この漁師である4人がイエス様に声かけをされた時、葛藤がなかったのかと言われると、私はきっと葛藤したと想像します。いきなり、イエス様に「人間をとる漁師にしよう」と言われたからです。たとえ、イエス様の存在と働きを多少なりとも、知っていたとしても、葛藤すると思うのです。また聖書は、字面だけを追っていると、出来事が直ぐに起こったように思ってしまいます。しかし、実際は時間的に直ちにという意味ではなく、葛藤する中で、心を神さまに向ける悔い改めに導かれて、イエスさまに従う歩みを第一として歩みだしているのです。

少し時代背景を述べますが、当時、ヘロデが治めていたガリラヤという地域は、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていました。理由は、ガリラヤの中でも特に北部にあるこの地域は、他国からの攻撃や支配を何度も受け、多くの異邦人が流入していたからです。当時のユダヤ教の中心地であるエルサレム等からは、「あそこは異邦だ、混血が進んでおり、汚れている」と、思われていました。また、混血が進んでいるがゆえ、純粋なユダヤ人を中心のユダヤ教の教えから離れ、神様の教えから離れた場所である、人々が住んでいるという意味も込めて「異邦人のガリラヤ」と、侮蔑した意味で言われていました。ゆえに、漁師達は日々の生活や、自分達の見られ方、侮蔑され、苦しい日々を送り、今日の漁でも魚は獲れない、日々生きるのも大変・・・と想像もできる状況で、イエス様と出会い、言葉を投げかけられました。そして従っていったのです。私達はどうでしょうか。すぐにイエス様に従っていくことができるでしょうか。私は、到底できない・・・と、思ってしまいます。そんな私たちをご存知の中で、イエス様は「わたしについて来なさい。」と、暗闇の方に心囚われてしまっている私にも、語りかけられるのです。このイエス様の言葉は、ヨハネによる福音書1516節で、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。あなたがたは出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と示されているように、罪を犯す暗闇の中に歩む私たちを光の歩みに導く、神様の働きを語っています。

この漁師達は、葛藤する中で、光に照らされて歩む道を第一とする者として、イエス様と共に歩むことを選びました。

自分自身を振り返ってみますと、何度も語りかけて下さるイエスさまの言葉を聴き、葛藤はしながらも、中々イエスさまに従う歩みへと、心が向かない者でした。それでも、何度も語りかけて用いて下さろうとするのがイエス様でした。そして、洗礼を受けはしても、今も変わっていない自分がいると、気付かされます。福音を受け取りたい、イエス様が「わたしについて来なさい」と招かれている、光のある歩みについていきたいと思うのですが、同じようなことを繰り返し、奢り高ぶり、人を裁く自分がいる。でも、ついていきたい、いや、いつになってもついていけないと葛藤し、自分が嫌になり、暗闇にとどまり、いつまでたっても光に照らされて歩む道へと向かない、罪にとらわれている歩みをしていると、自覚させられます。

本日の第一日課では、イザヤ書8章23節から9章3節までを、お読みました。このイザヤ書では「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」と書かれています。そして、福音書15、16節にも「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」と、書かれています。この預言が成就するために、イエス様はこの暗闇にある、ガリラヤから宣教を始められています。当時を生きるガリラヤの人々は、ヘロデの支配も厳しく、救ってくれると思っていた洗礼者ヨハネが捕らえられ、自分達が世間から「異邦人のガリラヤ」と侮蔑され、どうしようもない暗闇に生きるしかない中で過ごしていたことでしょう。しかし、そうした中にあってイエス様が光あるほうへ導いて下さり、4人の漁師達を「人間をとる漁師」にして下さいました。

今を生きる私達にも、今、イエス様は「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語られています。マタイ3章2節でヨハネが言っていた「神の国」が、イエス様と共にもう来ているのです。その福音を聴いても尚、自分勝手に生きてしまう、それが暗闇に目が向いている生き方と、私達は気づけない、知っても尚、見て見ぬふりをしてしまうかもしれません。しかし、漁師達は葛藤しながらも、喜んで商売道具を捨て、イエス様に従いました。今日、私達が思いもよらないことに神様の力が働き、いつも大きな愛で守って下さっています。その福音をイエス様はいつも語り、私達を光あるほうに導いて下さっています。福音を聴き、伝えていく者でありたいと思います。

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