去年リモートでハラスメント研修会というものを受けました。そこで初めて知ったのは、情緒的ネグレクト、という言葉です。相手の意志を無視して、強制させることです。特に子どもなどに。この情緒的ハラスメントはは、外からは分かりにくいものもあるといいます。別の機会で知った例ですが、小学校6年生の男の子、お父さんが少年野球のコーチだったそうです。本当は科学クラブに入りたかったような性格の子なのですが、半ば強制的に少年野球に入れられた。そしたら、学校で自分より弱い立場の子に、隠れて暴力行為をしていた、というケースです。順番でいえば、暴力行為が発覚して、相談機関に行き、そこで事の次第が明らかになっていったケースです。周囲からは、子育てに熱心な親だと思われていました。
令和の視点から考えると、昭和の時代に育った人は、今思うと、虐待も受けていましたし、ネグレクトも受けていた。そのせいで、トラウマができ、世の中を恐れて人によっては必要以上に戦闘的になったり、必要以上に消極的になったりする人がいる。相手は、それほどの意図がないのに、無視されたや、ばかにされたと過剰に受けとめて、過剰に反応し、傷つけあってしまう。程度の差はあれ、みんなどこかで歪んでいます。一つ救いになったのは、特に子どもの頃、虐待やネグレクトを受けても、それのおかしさに気づけなくて当たり前ですし、相手はお前のためだとか、お前がそうさせているとかいうけど、決して子どもは悪くない、ということです。子どものあなたは被害者であって、非は一つもない。ただし、そのトラウマが原因であったとしても、あなたが加害者になったのなら、それは非難されることであり、正されていかなければならないことです。あなたへの加害者も、もともと被害者でした。その人も誰かに歪められたものです。だからと言って、それが許されるわけではないのと同じです。私たちは、ゆがみに気づいたら、少しずつでもその歪みを直していかなければなりません。今は、昭和よりはましになった部分はあったとしても、まだ見つかってない問題はたくさんあるでしょう。
トラウマとは、自分でも気づきにくいもののようです。ただ、消えずに心の奥で残っている、寂しさ、悲しさ、理不尽な扱いを受けたことの憤り、それが時々必要以上に刺激されて、不安になったり、怒りになったりして、過剰な反応をしてしまう。
今日の福音書の箇所は、山上の説教と呼ばれる個所です。読み直して改めて印象に残ったのは、この説教はイエスさまが、腰を下ろして、低い目線で、弟子たちに語り掛けた言葉だということです。そして、この説教は、詩、ポエムで始まっています。詩というのは、理屈っぽく頭で考えると、おかしなことが書かれているのに、時々なぜか心の奥を動かします。
聞いてすぐに受け入れられる言葉もあります。
柔和な人が地を受け継ぎ 憐み深い人が憐みを受け 心の清い人が神を見 平和を実現する人は神の子と呼ばれる
しかし、聞いて理屈では納得のできない言葉もあります。
心の貧しい人、悲しむ人、義に飢え渇く人、身に覚えのないことで悪口を言われる人、そういう人が幸いだと呼ばれるのは、すぐに理解できません。
でも、この言葉を聞いて、不思議と涙が出そうになる時があります。私たちの心の奥底には、悲しみがあり、不当に扱われた義憤があり、身に覚えのないことで悪く言われた、辛い記憶がある。イエスさまは、この満たさなかった思いを与えなおすために来た方だと、宣言されているように見えます。悲しみに、慰めを与え、不当な扱いを退け、あなたを正しく扱い、身に覚えのない悪口を退けてくれる方です。きちんと与えられなかったものを、満たすために来られた方です。
イエスさまご自身も、同じ痛みを負った方です。不当な扱いを受け、身に覚えのないことで罪に定められ、悲しみの中で十字架にかけられた方です。それでも、復活の永遠の命を与えられ、愛と栄光を受けた方です。神さまは、この世の生涯を超えて、必要なものを与え、慰めを与えてくれる方です。
心の貧しいものよ、天の国はあなた方のものです。自分の貧しさを素直に認め、愛に飢え渇くものとして、救いを望みましょう。不完全であっても、少しずつ清められ、憐みの心を持つものとなり、平和を実現していくものになっていきましょう。
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