2026日 顕現後第5主日

                 マタイ福音書5章13~20節 「 決して消え去らない 」 澤田春貴

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

今日の福音書の日課の17節で、イエスはこのように言います。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」律法とは、旧約聖書の出エジプト記で、神がシナイ山でモーセに告げた言葉です。単なる規則というより、人が生きるために神が与えた言葉である点で、キリスト者は律法を大切なものと受け止めています。その律法を完成するために来た、とイエス様は言います。「律法を完成する」とはどういうことかを聞いていく必要があると思います。

律法という言葉に関連して、律法主義という言葉を、私たちは教会などで耳にすると思います。人を縛るために律法を扱おうとする側面が人間にはあることを伝える言葉です。規則や法律を守るように求めることはもちろん大切なことです。事情を汲むべき場面に出くわすことはありますが、だからと言って破っていいとは言えないでしょう。ですが、律法主義の問題は、規則を完璧に守っていると思う心が高慢に繋がり、まったく守れていないと評価することが自分を卑下したり、他者を見下したりすることに繋がることです。集団の規則、それが文章になっていても、暗黙の了解でも、それを守らない者は排除しようとする。常識であると思われる価値観を人に押しつけようとする。既に存在するルールであっても、自分の価値観に基づくルールであっても、人は他者を攻撃するために規則を用いることがあるのです。

自分の思い通りに相手が従ってくれるのなら、自分は傷つかずに済む。私は、傷つかずにことを済ませたい、と思います。嫌われ役になっても構わないと言っておきながら、嫌われることを恐れています。実際に、現実は都合よくいきません。お互いの考えや意地が見えないところでぶつかり合い、互いに拒絶し合うことが起こり得るのです。自分の願いに対して、何か言い返されるかもしれない。あるいは陰で悪く言われるかもしれない。そのことを私たちは心のどこかで意識しているのだと思います。私自身も人との関わりの中で、どうしてこんなことを言われなければいけないのか、こんな仕打ちを受けなければならないのか、と言い返したしたこともありました。自分の心の中で、何度も相手を罵ったこともありました。私は傷つくことを誰よりも恐れ、傷つけることで自分を守ろうとしてきた。自分を守るために、ありとあらゆる価値観やルールを勝手に解釈して、それを押しつけて来た。誰かに否定されたら、その人を拒絶した。それぞれの心の内にある律法主義が、傷つけあうために生み出されてしまっているのです。人と関わることで得られる喜びもあるけれど、同時に傷つけたり、傷つけられたりすることもあります。人と関わることは、思っている以上に心をすり減らすのかもしれません。

今日の福音書の冒頭で、イエス様は言います。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である。」ヨハネによる福音書8章でイエス様は、「わたしは世の光である」と言います。福音書全体を踏まえて今日の日課を読むと、イエス様は私たちを、イエス様と同じであると言っているのです。イエスのように自分の命を捨て、十字架の道を歩むことなど、私たちはしようと思わないし、できません。イエスと同じどころか、イエスに似てさえもいません。しかし、誰がどう評価しようがイエス様は、私たちが地の塩・世の光であると言われるのです。イエス様から遠くかけ離れていて、ほとんど損なわれている私たちの塩味と光であっても、その味と光は誰にも捨てることができません。なぜなら、私たちにある持ち味、私たちが放つ光を通して、その源である神様が生きて働かれているからです。

私たちは、できることなら誰も傷つけたくないし、自分も傷つきたくないと願っています。しかし、傷つきたくないという思いそのものが、時に他者との間に高い壁を作り、結果的に相手を拒絶し、傷つけてしまう。私たちは、そのように行き詰っている現実の中に生きています。しかし、神様は行き詰まりのタネを消してくれる方ではありません。イエス様の十字架での死と復活を通して、私たちが悩み苦しみの中にあっても、それを抱えながら生きていてもいいと伝えてくれるのです。イエス様は、自分の命と引き換えに、行き詰まりのタネである罪の中に私たちの代わりに飛び込んでくれた。その罪を自覚してもしきれない私たちと共に復活して、悩み苦しみから解き放ってくださった。味を失った塩、自ら遮ってしまった光、それらの本来の姿を、私たちに教えてくださいました。そのイエス様が、私たちを地の塩・世の光として信じてくれている。たとえ自分のせいでその味や輝きを失っても、私たちに本来の味と輝きを取り戻してくれます。私たちが自分を赦せなくなっても立ち上がってほしい。傷つきながらも隣人と共に生きて、隣人を赦し、愛してほしいと、イエス様は伝えているのです。

今日の第二日課、コリントの信徒への手紙29節には、こう書かれています。「目が見えもせず、耳が聞こえもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された。」律法は神様が私たちに与えた言葉です。私たちは自分の知恵や能力のおかげで生きているのではない。自分の外側からやってくる神の知恵によって、私たちは日々神様に愛され、新しい気づきを与えられます。そして今日の福音書でイエス様は「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と語られます。神様の言葉である律法は、決して消えて無くなることはありません。神様が求めていることは、私たちが律法を支配して神になることではありません。神様が私たちを愛して、守って、導いてくださっている。イエス様がその身に十字架を背負われたことで律法を体現してくれている。愛の輝きを私たちに照らしてくれている。だから、私たちもその輝きを、光を失ってしまった隣人に伝えていきたいのです。

イエス様は言います。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」自分の持ち味や輝きが活かされている中で、私たちは神様が生きていることを証しすることを、イエス様は信じています。自分の持ち味や輝きが、人に見られようが見られまいが、誰かに生きる力を与えることを、イエス様は信じています。与えられた場で、自分の限界を受け入れながら、神様に委ねながら、今日も他の誰かと関わっていきたい。イエス様が私たちを信じてくれているように、私たちも神様が一緒に生きていることを信じる歩みをしたいと願います。

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