2026日 四旬節第2主日

                 ヨハネ福音書3章1~17節 「 無力 」 吉田達臣

3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

  今日の聖書の箇所には、ニコデモという人が出てきます。ファリサイ派で、議員であったといいます。イエスさまに、夜会いに来たといいます。なぜ夜に来た、ということが書かれているのか、様々な憶測がありますが、ファリサイ派や議員は後々、イエスさまと対立し、十字架にかけていく存在です。もうそのような対立が始まっていたかどうかは分かりませんが、少なくとも評価は確定していなかった。だから、人目を避け、夜に来たのかもしれません。ニコデモは、イエスさまに言います。あなたは、神のもとから来られた教師だと。神が共に居るのでなければ、あのようなしるしは行えない、といいます。しるしとは、聖書独特の表現ですが、奇跡のことです。
  しかし、イエスさまは、この直前の2章の終わりに書かれていますが、しるし、奇跡を見てイエスさまを信じた人を信頼されなかった、そう書かれています。イエスさま言う、水と霊とによって新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと。ニコデモはいぶかしく思う、新たに生まれる、普通に考えれば人格が転換するくらいのことを言われたようなものです。それは現在の自分への完全な否定です。まだ若ければ新たに生き直す、そんな官能性もあるでしょうが、年老いた自分にできるはずはない、そう語っています。しかし、イエスさまは言います。人間にはできないが、神にはできると。そして、モーセは荒野で蛇を上げたが、人の子も上げられなければいけないと。それは、信じるものが、人の子によって、永遠の命を得るためだといいます。

荒野の蛇、というのは、民数記21章に出てくる出来事です。エジプトを脱出し、約束の地まで荒野の40年の旅をしている途中、食事の粗末さに、ユダヤ人たちは、モーセと神さまにもんくを言った。すると神さまは炎の蛇を遣わし、蛇は民をかみ、多くの死者が出たといいます。民はモーセに不平を言った罪を告白し、助けてくれるように願います。モーセは神に祈り、与えられた神さまの指示通りに、青銅で蛇を作り、旗竿に掲げます。青銅の蛇を仰ぐと、蛇が噛んでも死ななくなった、と書かれています。
  人は弱っている時、追い詰められたとき、弱さや狡さ、醜さが出ます。私たちも、生きていることが辛く感じる時、生まれてきたことを嘆く、そんな気持ちになる時があります。生まれたことを嘆く、それは神さまに対する不平です。しかし、そんな不平を言いながらも、本当に死にそうになれば、生かしてくれと願ったりします。
  
イエスさまは、躓きの石です。イエスさまに多くの民がついていくと、祭司や議員たちは焦りを感じ、なんとしてでもイエスさまを殺そうとする。人間の醜さの表れです。イエスさまの弟子たちも、イエスさまが捕まった時には逃げてしまう。最後まで追ったペトロは、結局裏切りの言葉を続けて言ってしまうことになります。追い詰められたとき、人はずるさや醜さが出る。命の危険を感じたとき、前日死んでもついていく、と言っていたにもかかわらず、やはり怖くなって裏切ってしまう。私たちは、四旬節、受難節の間、イエスさまの受難と共に、人間の狡さと醜さを見せられます。その姿に、自分と重ね合わざるを得ない、そんな思いにさせられます。しかし、この道のりは、必要な道です。人は自分の弱さ、罪深さ、無力さを感じる時初めて、生まれ変わろうとすることができます。私たちは、罪と死に対して、余りにも無力です。うすうす感じていながら、普段はそれに向き合わず、目をそらしています。しかし、実際に私たちは弱く、死に対し命に対し、できることが何もない無力なものです。そのことを受け入れる時に、心から謙虚に、神に助けを求めることができます。
  ルターは自分が弱った時、しばしば、「自分は洗礼を受けている」そう唱えたと言われています。水と霊によって、新たに生まれる。人間にはできませんが、神さまにはできる、イエスさまはそう断言します。私たちはその言葉をどれほど確信しているかは分かりませんが、その言葉にかけるしかないものでもあります。
  教会が洗礼を授けているのは、マタイ福音書の最後に、イエスさまが、全ての民を私の弟子にし、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるように命じたからです。人間の願望、人間のニーズで勝手に始めたものではありません。イエスさまの言葉から生まれたものです。すべての民が、洗礼に招かれています。私たちは、罪に対して、死に対して、余りにも無力であるからこそ、洗礼を受けた。その自覚と、それを上回る、神の憐み深い恵みを覚えて、愛されながら、謙虚にさせられながら、生かされていきましょう。

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