202615日 四旬節第4主日

                 ヨハネ福音書9章1~43節 「 主よ、信じます 」 吉田達臣
 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

 9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

  最近ではあまり聞かなくなりましたが、以前はいろんな宗教を渡り歩く人がいました。自分に合う宗教、自分が気に入る信仰を探し求める人です。でもそうである限りは、自分が主であり、自分が審判する神のような存在です。少なくとも、キリスト教の信仰観にはそぐいません。圧倒的な存在である、神と出会うということは起こりません。
  信仰ではなくとも、人はどこかで、自分なりの人生観、自分なりの世界観を持っています。人とはこういうものであり、世界はこんな風にできている。言葉にせずとも、そういうものを持っています。人はどこかで、自分の信じたいものを信じる傾向がある。自分の世界観に合わない。自分の人生観に合わない。自分の信仰観に合わない。そういうものを拒否する心があります。
  今日の福音書の箇所は、目が見えなかったが、見えるようになった人を中心とした話です。乞食をしていた目の見えなかった人が、イエスさま指示通りにすると、目が見えるようになりました。周りの人は驚いた。これは神のみわざによる奇跡なのか、確かめるつもりだったのかもしれません。この出来事をファリサイ派の人に報告する。ファリサイ派の人が、本人に確かめると、イエスさまの言われた通りのことをしたら、目が見えるようになったといいます。ファリサイ派の人の中で意見が分かれる。癒したイエスさまは神から遣わされたものだ、という人もいれば、安息日を破っているから違うというひともいます。本当に生まれつき目が見えなかったのか、本人にも、両親にも尋ねる。両親も、どうやって治ったのかは分からないが、生まれつき目が見えなかったのは確かだと証言します。それでも受け入れられず、ファリサイ派の人たちは、もう一度本人に確かめる。本人は、もう何回も説明したという。それでも、ファリサイ派の一部の人は受け入れられない。とうとう目が見えるようになった人を追放してしまう。その人の問題ではなく、この人を癒した人との問題です。イエスさまは最後に、どちらが目が見えない人なのか。ファリサイ派の人の振舞こそ、物理的には目が見えているが、現実が見えない人のようです。
  私も、聖書を読み始めたころ思っていました。目の前で奇跡を見せてくれたら、信じられると。しかし、当時の私なら、目の前で奇跡を見せられても、疑い続けたと思います。何か仕掛けがある。もともと目が見える人だったのではないかと。
  信仰を、現実から逃げる行為だと、考える人がいるかもしれません。しかし、私にとっては、逆です。聖書に出会った後の方が、弱くてずるくて、醜い、人間の本当の姿、自分の本当の姿に向き合わされている気がします。聖書に出会う前の自分の方が、願望込みで、実際の自分より自分を買い被っていました。その方が気持ちよかった。でも、地に足がついていない感じで、とても不安定でもありました。
  
イエスさまの罪の赦し、変わらぬ愛を信じるの中で、自分の弱さ、醜さ、罪深さを少しは認められるようになりました。イエスさまの救いの約束の中で、自分の限界、自分の無力さを認め、イエスさまに助けを求めることができるようになりました。
  実は見たことがないのですが、アメリカのドラマシリーズで、「THE BOYS」というのがあるんです。スーパーマンとかにそっくりなスーパーパワーを持ったヒーローたちが出てくるのですが、そのヒーローたちが必ずしも、正義感が強いわけでもなく、良い心を持っているわけでもない。そういう世界観の話らしいんです。今は、本当にそういう世界になってしまいました。大きな力を持った国が、正義感も、良心もないような振舞をしています。
  聖書に出てくる神さまは、私が思うようなタイミングで、私が思うような振舞をしてくれる方ではありません。意志を持った存在だからです。でも、聖書は語る。神は義であり、愛であると。私たちは神の義と神の愛を信じ、いつか正義が行われること、いつか愛が現れることを信じ、神による希望を持ちながらも、今は、荒野を歩みます。今は、いばらの道を歩みます。
  イエスさまは、以前自分が持っていた人生観、自分が持っていた世界観、自分が持っていた信仰観に治まる方ではありませんでした。もっと大きな方だった。
  目の見えなかった人は、話の始まりで、物理的に目が見えるようになりました。しかし、話が進むごとに、心の目が開かれていった。最初自分を癒した人を「知らない」といい。やがて、弟子であると語り、次には、あの方は神のもとから来られた預言者であると語り、最後にはイエスさまの前で、人の子、メシア、私の主であると告白していきます。たんに目が見るようになった喜びよりも、この方と出会えたことに、本当の喜びを感じるようになりました。イエスさまは言う、私は裁くために来たと。裁くというのは、正義が行われることであり、不当な扱いを受けていた人が正当な扱いに戻され、尊厳が守られることです。神は義であり、愛である、それは大きな福音です。この福音の希望を持って、それが神の必要とされる道ならば、荒野を歩きぬきましょう。四旬節の季節の中で、復活に向かって、いばらの道を歩みぬきましょう。

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