202622日 四旬節第5主日

                 ヨハネ福音書11章1~42節 「 最大の謎 」 吉田達臣
 

11:1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

  自分が存在し始めたこと、この世界があること、それが私にとって最大の謎です。しかし、これは謎と言っても、もう起きてしまっていることです。分からないなりに、生きなければなりません。しかし、未来にも大きな謎があります。死とは何か、死んだらどうなるのか、ということです。死んだらどうなるのか、確信を持って言える人は、恐らくいません。だれも、本当には死んだことがないからです。死の直前まで行って、生還した人ならいるかもしれませんが、その人は死んでいません。人間は、死という大きな謎に直面することを、知恵と努力によって、だいぶ先延ばしにすることはできるようになりましたが、死という謎を少しも解明できていません。人が死んでいく姿は、何度か見てきました。しかし、自分が死ぬということは、次元の違う問題で、全く違った思いを持ちます。この謎に対しては、謙虚でありたいと思います。無知であることを認め、畏れを持ちたいと思います。
  今日の福音書に出てくる、ラザロという人は、死んで四日たってから、イエスさまの力によって、生き帰ります。この四日間、どういう感覚だったのか、聞いてみたくてしょうがありませんが、直接聞くことはできません。ラザロのよみがえりと、イエスさまの復活の違うところは、ラザロは再び死んだということです。イエスさまに病気を癒してもらった人、目を開けてもらった人、いずれもその後みんな死んでいます。聖書の言葉を使えば、死という最後の敵は、攻略されていません。しかし、復活したイエスさまは、生きたまま天に昇っており、今も生きておられ、神の右に座していると、聖書は教えます。
  イエスさまは、生きている間、私を信じる者は、復活して永遠の命を授けるといいます。永遠の命を生きるとは、どういうものなのか、どんな世界を生きるのか、自分はどんな風になるのか、そういう言う具体的なことは、全然分かりません。イエスさまの言ったことが、本当なのか、誰にでも分かるように証明する、そんな裏付けは存在しません。
  私が言える最大のことは、まず私は、死が怖いということです。この恐怖がなければ、考えても分からないもの、気にしなきゃよい、と思います。でも、私にとって、死は怖い。もう一つ言えることは、死後どうなるか、どうしたいか、自分でコントロールする方法は、何もなさそうだということです。自分という意識のようなものが、存在し続けたいと思っても、消滅したいと思っても、より良い世界に行きたいと願っても、自分の頑張り次第で何とか出来るものではなさそうだということです。
  あと、私が伝えたいことは、少なくとも私にとっては、イエスさまはとても信頼できる方だということです。今日の福音書の箇所では、イエスさまが泣いたり、憤ったりしています。神の子らしくない、と思う人もいると思います。生きかえることが分かっているのに、なぜだろうと思う人もいるかもしれません。でも、イエスさまには間違いなく、愛情というものがある。ラザロに対し、マルタに対し、マリアに対し、愛情がある。愛情があるというだけで、思いは揺れます。愛する人を失えば、悲しいし、愛する人を奪われれば、憤ります。幼稚園で朝、親に送られて幼稚園に入る時、親から離れるのが嫌で、泣く子がいます。大人は思うかもしれない、夕方また会えると。でも、子どもにとっては、一時でも離れるのが嫌なんだと思います。離れるという出来事が嫌なんだと思います。愛する者持つと、心は揺さぶられます。
  イエスさまは愛を持っているからこそ、罪人をも復活させ、永遠の命を与えるのだと思います。いくら放蕩の限りを尽くした子どもでも、神さまは愛し続けており、帰ってきたら、死んだ息子が生き返ったように、喜ぶ方だと聖書は教えます。
  このラザロが生き返ったという話、とても信じられない、そう感じる人がいても、おかしくないと思います。でも、これが本当なら、イエスさまは人の死を越えて、命を復活させる力を持っているのだと思います。
  死に対して、命に対して、私は今でも謎であり続けています。ただ、罪人をゆるし、弟子たちを愛し、ラザロやマルタ、マリアを愛するイエスさまを私は信頼します。苦難の道を歩いていく、この方を私は信頼します。何の裏付けもありませんが、この方の言う事なら、そんな思いで信頼しています。私にとって、この方以上に信頼できる方はいません。私は、この方の言葉と約束に委ねます。どうぞ死ぬ時も、共にいて下さい。

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