2026日 主の復活

                 マタイ福音書28章1~10節 「 あきらめの悪い方 」 吉田達臣
 

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

  今日は特別な主日です。クリスマスの方が有名で、私たちの心も華やぎますが、意味合いとしては、復活祭の方が大事な主日です。私たちが日曜日に礼拝をするのは、イエスさまの復活が日曜日だからです。主日礼拝は毎回、小さな復活祭をしているようなものです。また今日は加えて、Kさんの洗礼式があります。更には、年度替わりの最初の主日でもあるので、幼稚園教職員の祝福式もあります。幼稚園の教職員として、本格的に初めの礼拝に来た人もいると思います。その中で、十字架で殺されたものが、蘇ったという話を聞き、すぐには信じられない、と思う人もいるでしょうが、それは普通の反応です。イエスさまは、冤罪で、濡れ衣で、死刑にさせられました。その時弟子たちは、ほとんど逃げましたし、最後までついていった弟子も、最後には仲間ではない、と裏切りの言葉を吐きます。それをとても後悔し、心残りも多く、だからこそ、改めてイエスさまの遺志を継ぎ、教会を始めていった。ある意味で、弟子たちの心の中に、イエスさまはかえって生き生きと蘇ったのだ、そう考えるならば、受け入れやすい、という人もいるでしょう。でも、その説明では、説明のつかないくらいに、教会を始めていく、弟子たちの歩みは不思議です。自分の師匠のような存在が、志半ばで非業の死を遂げた。不思議と死後、より身近に感じられ、その遺志を引き継いでいこう、という出来事は、たくさんとは言わなくとも、いくつでも起こりうることです。しかし、それが信仰となり、あの逃げた弟子たちが殉教者を出しながらも、その教えを宣べ伝え、結果的には全世界に広まり、2000年続いていった力は、何段階も違ったものに感じられます。弟子たちを変え、その歩みを始めさせる、格別な印象を与える出来事が弟子たちに起こったと感じさせられます。
  ただ、実際に死者がよみがえる、という不思議な超常現象、奇跡が起こったということのみが大事なことではありません。聖書では、奇跡のことを「しるし」という呼び方をします。何か意味が込められています。神さまからのメッセージが込められています。
  いぜん、幼稚園の研修会で、安家先生という先生が話してくれたのですが、その先生が延長をしている幼稚園に新しく入ってきた子がいて、まあ、言うことは聞かない。暴れまわる。その辺のものはひっくり返す、ある時は給食までひっくり返したそうです。先生方も、本当にぎりぎりまで忍耐して、苦労した。そしたら、約一年くらいたったころ、ぴったり止まったそうです。その子は児童養護施設から、通っていた子で、家庭の詳しい事情は分かりませんが、大人に対して、不信感を持っていたのだろうといいます。本当に自分を見捨てないのか、試していたんではないかといいます。そして、一年がかりで、ようやく信頼ができ始めた。まだ、3歳くらいでしょうから、本当に見捨てないか試そう、という明確は意識は持っていなかったでしょう。自分でも分からないが、そういう衝動が起こったのだと思います。卒園の時、教職員とあの子は命をつないだね、と語り合ったそうです。
  その話を聞きながら、私が考えていたのは、なぜイエスさまは、十字架にかけられたのだろう、ということです。意識的ではなく、人間は無意識的に、神の愛、イエスさまの愛を試したのではないかと、その講演を聞きながら、ふと思いました。イエスさまは、愛と赦しを語るが、どこまで赦されるのだろうと。本当に見捨てないのだろうかと。意識はしていなくても、そんな衝動があったのかもしれません。
  ある牧師が、イースターの説教でこう語っていました。神さまがよみがえらせたのは、あなたの救い主だと。イエスさまにとっては、殺されても、裏切られても、なおあなたをすく応訴し続けています。神さまにとっては、ひとりごを殺されても、なお、あなたを救おうとし続けています。あなたを赦し、なお、愛し続けます。イエスさまの復活は、そのしるし、神さまの意思表示でもあります。どうやら神さまは、相当あきらめの悪い方のようです。あなたの救い主は、殺されても復活し、あなたをゆるし、あなたを愛し、救おうとし続けます。御手の中で、人生を歩みましょう。

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