4月の幼稚園は大変です。朝玄関で、親との離れ際、泣く子がたくさんいます。特に初日などは、この世の終わりぐらい泣いている子がいます。でも、先生に抱きしめられ、部屋に連れて行かれると、何十分が語には、先生と手をつないで歩いていたりします。時々、こんな子もいて、先生に抱っこされながら、もう絶対泣き止んでやるものか、と言わんばかりに泣く子がいます。ところが、先生の抱っこに安心して、ふと泣き止んでしまう。泣き止んだ自分に気づいて、あっ泣かなければと、もう一度無理やりのように泣く子もいます。信頼って不思議なもので、信頼しようと力んでも、信頼できない相手は、信頼できません。逆に、信頼してやるものかと思っても、気づいたら信頼していることがあります。信頼したのは、子ども自身ですが、子どもの頑張りで信頼したわけではなく、先生の包容力で、子どもたちが気づいた時には、信頼してる。信仰も同じで、信仰するぞと力んでできるものではありませんし、信仰しろとたきつけたり、強制しても、心が急に信頼し始めるわけではありません。
現在は復活節、今日の福音書の箇所は、復活したイエスさまと、弟子たちが初めて再会する場面です。聖書を読みながら、よく思うことの一つは、人間の心が屈折しているということです。もう少し、素直になれれば、もっと早く和解できるのに、そう思うことがあります。祭司長や律法学者に、イエスを死刑にしてくれと訴えられた、ポンテオピラトは、イエスに罪を見いだせず、この訴えは、嫉妬のためだと感じたと書かれている個所があります。嫉妬って、ちょっとひっくり返せば、その対象にすごさを感じていることでもあります。嫉妬はしばしば、正義の仮面をつけて表に出ると言われています。自分が批判をしている人の何人かには、本当は嫉妬が混ざっており、どこかですごいと感じていたりする人もいるのだと思います。
最初に復活したイエスさまで弟子たちが出会った時、トマスという弟子は、一緒にいなかったと今日の箇所で書かれています。トマスは、
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
疑り深いトマスなどと言われますが、トマス自身も気づいていないかもしれませんが、トマスは、腹の奥底では、イエスさまが現れたことを感じていたんだと思います。確かに、死んだ者が生き返る、などということは、信じがたいことです。ただ、苦楽を共にしたこの兄弟弟子が、みんなで口裏を合わせて、トマスをだまそうとしたとは、感じていなかったと思います。では、なぜあのように言ったのかと言えば、トマスが本当に気にしていたのは、自分だけがいない場面で、イエスさまが現れたことです。トマスは寂しかった。残念だった。しかし、表現とすれば、屈折して、信じない、という怒りに似た表現になりました。人は罪悪感を感じて、逆切れすることもあります。あなたがもっとこうしてくれればよかったのだと。トマスの場合、寂しさが、怒りとして現れてきている。よく考えれば、トマスの言っていることはひどいことです。釘痕に指を入れ、脇腹の傷に、手を入れる。イエスさまを、もう一度傷つけ、もう一度痛みを与える行為です。それから8日後、同じ部屋で、今度はトマスもいる場面で、復活したイエスさまが、もう一度現れます。イエスはトマスに言います。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
あなたが信じるためなら、わたしはもう一度痛む、そう語っているように感じます。。そして、信じないものではなく、信じるものになりなさい、そう語られます。もちろんトマスは指や手を傷口に入れたりはしません。「わたしの主、わたしの神よ」思わず、そう語ります。信じたのは、トマスが力んだからではありません。イエスさまの包容力に包まれた。これも、イエスさまからの恵みです。私たちの信仰も、自分が頑張って持ったものではありません。恵みとして、与えられたものです。世を越えて、信頼できるあなたの救い主に出会えたことを、あらためて感謝しましょう。信仰できる存在が現れたことを改めて感謝しましょう。
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