| 今日の福音書の箇所は、エマオの途上と呼ばれる個所です。二人の弟子が、エルサレムを出発し、60スタディオン、約12キロ離れた、エマオという村に向かいます。これは、弟子の群れから離れ、自分の家へ帰ることを意味しています。十字架の出来事に失望して、信仰を捨てたという意味でもあります。しかし、完全には納得してはいないようで、道の途中十字架のことを、そして、イエスさまのことを話し合い、論じ合っていたといいます。するとイエスさまが近づいてきて、一緒に歩き始めます。しかし、二人は目が遮られていて、イエスさまだとは気づかない。何を論じ合っているのかと言われ、イエスさまのことを話します。するとイエスさま自らが、
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
何度も読んでいる個所ですが、先週黙想しながら、ふと思いました。イエスさまは、生まれた時から、苦しみを受け、十字架にかけられることが定められていたのだと。正確には、生まれた時からではありません。生まれるずっと前、モーセの時代から、それは定められていたのだと。受難から、逃れる術はなかったのだと。「運命」という言葉が思い浮かびます。私たちも、生まれる前から、神さまに定められた運命があるのでしょう。どう運命づけられているのか、分からないので、毎日必死に生きていますが、今までの人生も逃れられない道を歩んできたことになります。そう思ってみると、少し不思議な気持ちになります。あのケガも、あの病気も、あの不運も神さまが予め決められたもので、逃れる術がなかったことになる。なぜか少しだけ、心が軽くなります。あれがなければと、もっとああしていればと、変わることのない過去の不運を恨む気持ちがなくなる。自分を裁く気持ちが、無くなります。ああなるより仕方なかったのだと。取り立てて、人に自慢できるような人生ではないけど、これが神さまが私に与えてくれた人生なのかと思います。不運もあり、苦難もあるけど、神の子でさえ、苦難の道は与えられています。イエスさまはそれを嘆くことなく、神のみ心だから、と自分の定めを受け入れ、愛されているように感じられます。
イエスさまとこの二人は、聖書を解き明かされているうちに、目的地のエマオにつきます。二人は何か感じるものがあったのかもしれません。先を行こうとなさるイエスさまを無理に引き留め共に食事をします。イエスさまが、パンを裂いた時、ようやく二人の目は開かれ、それがイエスさまだと気づきます。しかし、気づいたとたんにイエスさまは見えなくなったと書かれています。少し残念な気がします。しかし、二人は時を移さずに、エルサレムに帰ったと書かれています。弟子たちの群れに戻ったと。二人はあることに気づく。自分達は気づいていなかったが、イエスさまの方から近づいてきてくれ、一緒に歩いてくれていたことです。ある註解書にこう書いてありました。二人の目が開け、それがイエスさまだと気づいたが、イエスさまは見えなくなった、いなくなったのではなく、ただ見えなくなった、聖書にはそう書かれていると。見えないけどまだ共にいる、二人はそう感じたのかもしれません。だからこそ、二人は時を移さずに弟子の群れに戻ったのでしょう。
未来のことは分かりませんが、私たちは神さまの予め定めた人生を歩んでいます。もうちょっといい人生の方が良かったという思いもあります。いらぬ苦難もありました。でも、あなたも、苦難の後に栄光を受けることになっていたではないか。そう語りかけられている気がします。苦労もありましたが、たくさんの恵みも備えられた人生でした。この人生は唯一無二の、あなただけの人生です。神さまに与えられた人生です。どうぞ、その人生を受け入れ、愛してください。それはあなた自身を愛することでもあります。あれがなければ、ああしていればと必要以上に不運を嘆いたり、自分を裁いたりしないでください。あらかじめ神さまが定められた道だったんです。あなたが必要以上に嘆かないように、必要以上に裁かないように、神さまはあなたに、信仰を与えました。イエスさまが近づいてきて、一緒に歩き始められました。イエスさまの姿ははっきりとは見えませんが、礼拝を通して、それがイエスさまご自身の与えた信仰であることを垣間見ます。イエスさまがパンを裂き、あなたに与えたその時に、イエスさまの臨在を感じてください。これからも、イエスさまが、あなたと共に歩み続けます。神さまが与えてくれたあなたの人生を慈しんで、これからも歩み続けましょう。
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